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本音と建前の間で翻弄される遊女たち
そして遊郭の歴史は幕を下ろすことに…
大正時代に入ると、婦人団体による廃娼運動が盛んに行われるようになる。後世において「大正デモクラシー」と呼ばれる、自由・民主主義運動の流れから発生したものであった。こうした声が一段と高まるのは、関東大震災後のことである。東京中が瓦礫の山と化した大震災を機に、同じく焼け果てた吉原遊郭を再建させないまま葬ろうという動きであった。
発端は「震災時に逃亡を防ぐために大門を開けず、遊女を拘束して土蔵に閉じこめた」という報道がなされたことにある。そして、地震後の火災に巻き込まれ、やむなく廓の裏手にある池(現在の吉原弁財天)に飛び込んだ遊女の多くが溺死したのも、みな悪しき楼主のせいだ、というのが世の論調になっていったのであった。
しかしこれらは、遊郭に対する偏見によるものも少なくなかった。そもそも地震の起きた正午前、大門は開放されている時間であったし、この時点で門が倒壊していた可能性もある。また、非情な廓の牛太郎(客引きや遊女の監視にあたる従業員)に、縄で腰を縛られ連ねられた遊女の焼死体が発見された、という話も曲解されている。後になってこの縄は、煙の中でパニックを起こしている遊女を、安全な場所に誘導するための命綱であったことが判明した。つまり、先述の焼死体となった牛太郎は、命がけで遊女の救出をしようとして失敗したというわけだ。実際、同様の方法で数百人もの遊女の命が救われている。苦界と呼ばれる廓内にも、人情は存在していたのである。この事実に目をつぶり、都合良く彼女らを利用したのは、むしろ廓外の人間たちであった。
「女性を商品と考える差別的行為」「風紀を乱す存在」と糾弾する人々の多くは、心の底では「良家の子女の貞操を守るための人身御供」という意識を持っていた。そのため、第二次世界大戦下、徴用令によって動員され、昼は女工、夜は従軍慰安婦として働かされる遊女たちを、見て見ぬ振りをしたようだ。公娼である遊女たちの「公務」であれば仕方がないと…。また、東京大空襲で都市一体が焼け野原と化した際には、当局から遊郭の営業をわずか1ヵ月で再開せよという無謀な命が下った。その理由は「治安維持のため」である。遊女たちは、風紀を乱すどころか文字通り身体を張り「良家の子女」の人柱となったのであった。
やがて終戦を迎え、1946年(昭和21年)には、GHQによって公娼制度廃止指令が下される。そのターゲットとなったのは、戦前から風俗営業が認められた地域、つまり赤線である(地図に赤線で囲まれた地帯)。そして12年間の猶予期間を経た1958年(昭和33年)、売春防止法が施行となる。この期間に多くの遊女が転業したり、郷里へと帰っていったりした。こうして吉原遊郭はその長い歴史の幕を下ろしたのである。そんな吉原最後の夜には、「ホタルの光」が流れていたという。
しかし、遊里吉原は終わらなかった。特殊浴場(現・ソープランド)として息を吹き返し、様々な圧力を受けながらも、今なお生きながらえている。かつて何度となく窮地を生き延びた不屈の精神は、350年を経た現代にも引き継がれている−−−。
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本音と建前の間で翻弄される遊女たち
そして遊郭の歴史は幕を下ろすことに…
大正時代に入ると、婦人団体による廃娼運動が盛んに行われるようになる。後世において「大正デモクラシー」と呼ばれる、自由・民主主義運動の流れから発生したものであった。こうした声が一段と高まるのは、関東大震災後のことである。東京中が瓦礫の山と化した大震災を機に、同じく焼け果てた吉原遊郭を再建させないまま葬ろうという動きであった。
発端は「震災時に逃亡を防ぐために大門を開けず、遊女を拘束して土蔵に閉じこめた」という報道がなされたことにある。そして、地震後の火災に巻き込まれ、やむなく廓の裏手にある池(現在の吉原弁財天)に飛び込んだ遊女の多くが溺死したのも、みな悪しき楼主のせいだ、というのが世の論調になっていったのであった。
しかしこれらは、遊郭に対する偏見によるものも少なくなかった。そもそも地震の起きた正午前、大門は開放されている時間であったし、この時点で門が倒壊していた可能性もある。また、非情な廓の牛太郎(客引きや遊女の監視にあたる従業員)に、縄で腰を縛られ連ねられた遊女の焼死体が発見された、という話も曲解されている。後になってこの縄は、煙の中でパニックを起こしている遊女を、安全な場所に誘導するための命綱であったことが判明した。つまり、先述の焼死体となった牛太郎は、命がけで遊女の救出をしようとして失敗したというわけだ。実際、同様の方法で数百人もの遊女の命が救われている。苦界と呼ばれる廓内にも、人情は存在していたのである。この事実に目をつぶり、都合良く彼女らを利用したのは、むしろ廓外の人間たちであった。
「女性を商品と考える差別的行為」「風紀を乱す存在」と糾弾する人々の多くは、心の底では「良家の子女の貞操を守るための人身御供」という意識を持っていた。そのため、第二次世界大戦下、徴用令によって動員され、昼は女工、夜は従軍慰安婦として働かされる遊女たちを、見て見ぬ振りをしたようだ。公娼である遊女たちの「公務」であれば仕方がないと…。また、東京大空襲で都市一体が焼け野原と化した際には、当局から遊郭の営業をわずか1ヵ月で再開せよという無謀な命が下った。その理由は「治安維持のため」である。遊女たちは、風紀を乱すどころか文字通り身体を張り「良家の子女」の人柱となったのであった。
やがて終戦を迎え、1946年(昭和21年)には、GHQによって公娼制度廃止指令が下される。そのターゲットとなったのは、戦前から風俗営業が認められた地域、つまり赤線である(地図に赤線で囲まれた地帯)。そして12年間の猶予期間を経た1958年(昭和33年)、売春防止法が施行となる。この期間に多くの遊女が転業したり、郷里へと帰っていったりした。こうして吉原遊郭はその長い歴史の幕を下ろしたのである。そんな吉原最後の夜には、「ホタルの光」が流れていたという。
しかし、遊里吉原は終わらなかった。特殊浴場(現・ソープランド)として息を吹き返し、様々な圧力を受けながらも、今なお生きながらえている。かつて何度となく窮地を生き延びた不屈の精神は、350年を経た現代にも引き継がれている−−−。
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