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開国を機に閉ざされた吉原の門も開く!?
文明開化の音は遊女の心を揺さぶるが…
明治の幕開けとともに吉原の廊主らが挑んだのは、外国人をターゲットにした「新島原遊郭」の開業だった。場所は現在の新富町一・二丁目付近。築地鉄砲洲(現・中央区明石町)にできた外国人居留地の目と鼻の先の立地である。長崎の丸山遊郭が外国人遊客で賑わっていたことに目を付け、居留地に近ければさらに儲かると見越したのであった。しかし、逆にこれがアダとなった。住居に隣接して遊郭があるとは非文明国の証だ、という抗議が相次ぎ、明治4年(1871年)、わずか2年半余りで取り払われ、それらの店は吉原遊郭に吸収されることとなった。
開国から日が浅い当時の日本としては、世界の文明国に仲間入りすることが最大の目標。この流れは、吉原遊郭にも着実に押し寄せて来ていた。それが明治5年(1872年)10月に発令された「芸娼妓解放令」だ。この発端となったのは同年の6月、横浜で起きたマリア・ルース号事件。台風の影響で破船したペルー船、マリア・ルース号が横浜港に入港。事件は、その船内から脱走した1人の中国人奴隷が保護を求めたことに始まる。これを「人権国家ニッポン」と世界に向けてアピールするチャンスにしようと、日本は国際法廷の場でペルーに奴隷解放を求めたのだった。結果、裁判は勝訴。乗船していた230人の中国人奴隷は本国に解放された。ところが、ペルー側から「日本にも娼妓(遊女)という女奴隷がいるではないか」と逆襲されてしまったから、さあ大変。せっかく得た世界の信用を失うわけにはいかない、と大急ぎで遊郭制度を廃止したのである。
とはいえ、お上による売春取締りは何百年も前から行われていたこと。法律ひとつで消滅するはずがない。事実、廊主たちは法律に縛られることなく営業を続け、その後も遊女数・客数ともに上昇。皮肉にもこの先20年も右肩上がりとなり、明治期最大の規模に膨れあがっていった。しかし明治33年(1900年)、遊郭はかつてない大打撃を受けることとなる。
きっかけは、名古屋の某遊女がキリスト教宣教師の助けを受け「自由廃業(解放)」の訴えを起こし、勝訴したことだった。これを受け、救世軍が大々的に遊女救済をPR。遊女たちの中では自由廃業が大ブームとなり、次々と廓を去って行った。その影響で吉原は大恐慌に突入。崩壊寸前に追い込まれた廊の関係者が、救世軍を襲う事件が多発する事態となった。一方、自由になったはずの遊女といえば…。引退したものの職がなく、クズ拾いをする者、私娼になる者、廓に戻る者など、厳しい現実が待っていた。それでも自由廃業を求める遊女は増え続け、10年後にはその数2千5百59人にも上ったという。
その翌年、さらに廊主に追い打ちをかけたのが、映画『吉原炎上』のモデルにもなった吉原大火である。廊から出火した火の手は強風にあおられ、遊郭内すべてを焼き尽くし近隣に延焼。6万9千5百坪が火の海と化した。
こうして暗雲のたちこめる中、吉原の明治時代は終わりを告げたのであった。
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開国を機に閉ざされた吉原の門も開く!?
文明開化の音は遊女の心を揺さぶるが…
明治の幕開けとともに吉原の廊主らが挑んだのは、外国人をターゲットにした「新島原遊郭」の開業だった。場所は現在の新富町一・二丁目付近。築地鉄砲洲(現・中央区明石町)にできた外国人居留地の目と鼻の先の立地である。長崎の丸山遊郭が外国人遊客で賑わっていたことに目を付け、居留地に近ければさらに儲かると見越したのであった。しかし、逆にこれがアダとなった。住居に隣接して遊郭があるとは非文明国の証だ、という抗議が相次ぎ、明治4年(1871年)、わずか2年半余りで取り払われ、それらの店は吉原遊郭に吸収されることとなった。
開国から日が浅い当時の日本としては、世界の文明国に仲間入りすることが最大の目標。この流れは、吉原遊郭にも着実に押し寄せて来ていた。それが明治5年(1872年)10月に発令された「芸娼妓解放令」だ。この発端となったのは同年の6月、横浜で起きたマリア・ルース号事件。台風の影響で破船したペルー船、マリア・ルース号が横浜港に入港。事件は、その船内から脱走した1人の中国人奴隷が保護を求めたことに始まる。これを「人権国家ニッポン」と世界に向けてアピールするチャンスにしようと、日本は国際法廷の場でペルーに奴隷解放を求めたのだった。結果、裁判は勝訴。乗船していた230人の中国人奴隷は本国に解放された。ところが、ペルー側から「日本にも娼妓(遊女)という女奴隷がいるではないか」と逆襲されてしまったから、さあ大変。せっかく得た世界の信用を失うわけにはいかない、と大急ぎで遊郭制度を廃止したのである。
とはいえ、お上による売春取締りは何百年も前から行われていたこと。法律ひとつで消滅するはずがない。事実、廊主たちは法律に縛られることなく営業を続け、その後も遊女数・客数ともに上昇。皮肉にもこの先20年も右肩上がりとなり、明治期最大の規模に膨れあがっていった。しかし明治33年(1900年)、遊郭はかつてない大打撃を受けることとなる。
きっかけは、名古屋の某遊女がキリスト教宣教師の助けを受け「自由廃業(解放)」の訴えを起こし、勝訴したことだった。これを受け、救世軍が大々的に遊女救済をPR。遊女たちの中では自由廃業が大ブームとなり、次々と廓を去って行った。その影響で吉原は大恐慌に突入。崩壊寸前に追い込まれた廊の関係者が、救世軍を襲う事件が多発する事態となった。一方、自由になったはずの遊女といえば…。引退したものの職がなく、クズ拾いをする者、私娼になる者、廓に戻る者など、厳しい現実が待っていた。それでも自由廃業を求める遊女は増え続け、10年後にはその数2千5百59人にも上ったという。
その翌年、さらに廊主に追い打ちをかけたのが、映画『吉原炎上』のモデルにもなった吉原大火である。廊から出火した火の手は強風にあおられ、遊郭内すべてを焼き尽くし近隣に延焼。6万9千5百坪が火の海と化した。
こうして暗雲のたちこめる中、吉原の明治時代は終わりを告げたのであった。
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