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相次ぐ飢饉と不況の波は吉原をも直撃!
そんな中、江戸幕府は終焉の時を迎えた
江戸時代後期、19世紀も目の前という1800年、吉原遊郭が直面したのは火災であった。以降、幕末までに14回もの火災に遭い、その内11回が全焼。そのたびに、本所・深川・浅草・両国など近隣地の料理茶屋、民家を借りるなど、仮宅での営業を余儀なくされた。ここでは格式張ったしきたりは一切なかったため、吉原通いとは縁遠かった庶民も今がチャンスと大勢押し掛け、商売は思いのほか繁盛した。しかし、火災は頻発して起こり、物見遊山の客は減少。逆に岡場所(無許可の売春屋)とは一線を画してきた吉原の格も徐々に下がり、常連の上客の足も次第に遠のいていった。
一方、町中は、江戸町人文化(化政文化)の最盛期。川柳や洒落本・滑稽本・人情本といった風刺の文芸が次々に誕生していた。また、寺社参詣も流行。西国へ巡礼に向かう人が増え、これによって各地の文化交流が行われるようになり、様々な情報を見聞きすることができるようになった。こうして身近な娯楽が増えた町民たちは、身に余る大金を投じて遊郭通いする必要性がなくなっていったのである。そんな中で行われたのが天保の改革(1841年)であった。長引く飢饉によって幕府の財政は逼迫。そのため徹底した質素倹約が掲げられ、歌舞伎の弾圧を筆頭に、次々と町民の娯楽が奪われていった。また、吉原以外の売春屋は徹底的に壊滅に追いやられ、遊女たちは一斉に吉原に集められた。岡場所や私娼に手を焼いていた吉原の廊主にとっては、格好の機会であったが、改革の失敗によって景気は低迷。遊女の数は莫大に増えたものの客は来ないという状況が続いた。そこで、寺社参詣の流行にあやかろうと、吉原名物の灯籠を安芸の宮島の回廊風の飾り付けにしたり、遊女に伊勢音頭を踊らせたりと、様々な趣向を凝らすようになった。また「現金・引き手なし・遊女大安売り」のチラシを江戸の町中に配る廊まで出現。茶屋を通さないことで、中間マージンや諸経費を一切なくし、低価格で客を獲得する作戦に出たのである。しかし、この庶民を意識した作戦は、かえって江戸吉原というクオリティを下げる結果となった。
やがて時代は幕末末期へ突入。町中では薩長軍による放火や強奪、暴行など、幕臣を挑発する行動が繰り返されていた。一時は薩長軍に吉原の遊女を抱かせ、殺伐の気を和らげようという策まで講じられていたという。一方、当時の吉原は1866年に起きた放火によって全焼に近い被害を負っていた。そのため吉原遊郭のほとんどが、深川の仮宅で江戸時代の終焉を迎えたのである。幕府容認の公娼とはいえ、廊主にとっては商売さえできれば、幕府も薩長も関係ない。当初の仮宅営業許可は2年であったところを、幕末維新の混乱に乗じ、明治3年(1870年)まで居残ることに成功した吉原廊主たちは、来たる新時代に向けて策略を巡らしたに違いない。
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相次ぐ飢饉と不況の波は吉原をも直撃!
そんな中、江戸幕府は終焉の時を迎えた
江戸時代後期、19世紀も目の前という1800年、吉原遊郭が直面したのは火災であった。以降、幕末までに14回もの火災に遭い、その内11回が全焼。そのたびに、本所・深川・浅草・両国など近隣地の料理茶屋、民家を借りるなど、仮宅での営業を余儀なくされた。ここでは格式張ったしきたりは一切なかったため、吉原通いとは縁遠かった庶民も今がチャンスと大勢押し掛け、商売は思いのほか繁盛した。しかし、火災は頻発して起こり、物見遊山の客は減少。逆に岡場所(無許可の売春屋)とは一線を画してきた吉原の格も徐々に下がり、常連の上客の足も次第に遠のいていった。
一方、町中は、江戸町人文化(化政文化)の最盛期。川柳や洒落本・滑稽本・人情本といった風刺の文芸が次々に誕生していた。また、寺社参詣も流行。西国へ巡礼に向かう人が増え、これによって各地の文化交流が行われるようになり、様々な情報を見聞きすることができるようになった。こうして身近な娯楽が増えた町民たちは、身に余る大金を投じて遊郭通いする必要性がなくなっていったのである。そんな中で行われたのが天保の改革(1841年)であった。長引く飢饉によって幕府の財政は逼迫。そのため徹底した質素倹約が掲げられ、歌舞伎の弾圧を筆頭に、次々と町民の娯楽が奪われていった。また、吉原以外の売春屋は徹底的に壊滅に追いやられ、遊女たちは一斉に吉原に集められた。岡場所や私娼に手を焼いていた吉原の廊主にとっては、格好の機会であったが、改革の失敗によって景気は低迷。遊女の数は莫大に増えたものの客は来ないという状況が続いた。そこで、寺社参詣の流行にあやかろうと、吉原名物の灯籠を安芸の宮島の回廊風の飾り付けにしたり、遊女に伊勢音頭を踊らせたりと、様々な趣向を凝らすようになった。また「現金・引き手なし・遊女大安売り」のチラシを江戸の町中に配る廊まで出現。茶屋を通さないことで、中間マージンや諸経費を一切なくし、低価格で客を獲得する作戦に出たのである。しかし、この庶民を意識した作戦は、かえって江戸吉原というクオリティを下げる結果となった。
やがて時代は幕末末期へ突入。町中では薩長軍による放火や強奪、暴行など、幕臣を挑発する行動が繰り返されていた。一時は薩長軍に吉原の遊女を抱かせ、殺伐の気を和らげようという策まで講じられていたという。一方、当時の吉原は1866年に起きた放火によって全焼に近い被害を負っていた。そのため吉原遊郭のほとんどが、深川の仮宅で江戸時代の終焉を迎えたのである。幕府容認の公娼とはいえ、廊主にとっては商売さえできれば、幕府も薩長も関係ない。当初の仮宅営業許可は2年であったところを、幕末維新の混乱に乗じ、明治3年(1870年)まで居残ることに成功した吉原廊主たちは、来たる新時代に向けて策略を巡らしたに違いない。
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