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活気づいていく町人の生活とは裏腹に 遊女たちの労働は過酷を極めていった
江戸中期に入ると貨幣経済が発展し、町人が現金を手にするようになっていった。一方、年貢米という現物支給によって給料を得ていた武士は、米価の変動によって生活を左右され、その多くが貧困に窮していた。そのため遊女たちに「金もないのに、コトに及べば鼻息荒く、プライドだけは高い」と嫌われた武士たちは、町人姿に変装して吉原へ足を運んだという。
一般町民が金を手にするようになると、庶民向けの非認可の遊女屋(岡場所)が勢いづいていった。実は、吉原遊郭創設以来、この岡場所との闘争は絶えることなく続いていた。何しろ吉原の場所は江戸の中心街から遠く、遊ぶためには丸1日を要した。一方、岡場所は町の所々にあるため、親や妻の目を盗んで簡単に行き来できる。中には1日数回通う者もいた。公営の遊郭である吉原を差し置いて、違法の岡場所に儲けられてはたまらんと、奉行所に取り締まるよう陳情書を提出するが、その根を絶やすことはできない。ついに吉原の楼主は客に見立てたスパイを敵陣に送り込み、現場を押さえる作戦まで行った。一方、敵も負けてはいない。吉原関係者の顔を知り尽くした者をヘッドハンティングし監視させ、スパイが近づくと、すかさず遊女を別部屋に隠し、平然と売女業を否定した。
こうした堂々巡りが続く中、吉原は少しずつ逼迫していく。そのワリを食ったのが遊女たちだった。以前は1日に一人の遊女が相手する客は、昼一人、夜一人と定められていた。しかし、文化年間(1804年〜)ころには「廻し」と称し、一夜に5〜10人もの客を取らされたり、17歳にもならない若い娘に無理に勤めをさせたり、働きが少しでも鈍ると下等な買女屋へ売り渡され、死に至るほど酷使させられたのである。
遊女たちは年季奉公である。一旦、親と雇主との間で契約が成立すると、その期間(年季)が明けるまでは主人の言いなりになるしかない。最長期間は10年と定められていたが、実際には何かの理由を付けては期間が延長されることが多く、年季前に苦界(くがい)とよばれるこの世界から解き放たれるには、馴染み客によって身請けされるか、死ぬしかなかった。もちろん有給休暇や自由出勤などというシステムはない。勤めを休みたい場合は「身揚り(みあがり)」といって自分で自分を買う必要があった。つまり、1日の揚げ代金を借金に加算されたのである。しかし、青春時代を廓の中で過ごす遊女たちにとっては、そうまでしても逢いたい情夫がいたのである。中には見揚りの代金のために、身の回りの服や家具まで売る遊女までいた。さらに、客を取れなかった日にも、仕事を果たさなかったとされ、折檻された上に身揚りさせられることもあったという。
こうした過酷な労働を強いられた遊女たちは、遺体となって吉原を去るケースが多々あった。死者は吉原大門をくぐることは許されない。裏手にある不浄門から跳ね橋を渡り、遊郭を囲む「お歯黒どぶ」を越えて廓外へと運び出されるのである。そして粗末な棺桶に入れられた後、「投げ込み寺」と称される浄閑寺へ運ばれ無縁仏となった。
”生きては苦界、死しては浄閑寺“
後に浄閑寺境内に作られた「吉原総霊塔」の墓碑に刻まれていた川柳である。
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活気づいていく町人の生活とは裏腹に 遊女たちの労働は過酷を極めていった
江戸中期に入ると貨幣経済が発展し、町人が現金を手にするようになっていった。一方、年貢米という現物支給によって給料を得ていた武士は、米価の変動によって生活を左右され、その多くが貧困に窮していた。そのため遊女たちに「金もないのに、コトに及べば鼻息荒く、プライドだけは高い」と嫌われた武士たちは、町人姿に変装して吉原へ足を運んだという。
一般町民が金を手にするようになると、庶民向けの非認可の遊女屋(岡場所)が勢いづいていった。実は、吉原遊郭創設以来、この岡場所との闘争は絶えることなく続いていた。何しろ吉原の場所は江戸の中心街から遠く、遊ぶためには丸1日を要した。一方、岡場所は町の所々にあるため、親や妻の目を盗んで簡単に行き来できる。中には1日数回通う者もいた。公営の遊郭である吉原を差し置いて、違法の岡場所に儲けられてはたまらんと、奉行所に取り締まるよう陳情書を提出するが、その根を絶やすことはできない。ついに吉原の楼主は客に見立てたスパイを敵陣に送り込み、現場を押さえる作戦まで行った。一方、敵も負けてはいない。吉原関係者の顔を知り尽くした者をヘッドハンティングし監視させ、スパイが近づくと、すかさず遊女を別部屋に隠し、平然と売女業を否定した。
こうした堂々巡りが続く中、吉原は少しずつ逼迫していく。そのワリを食ったのが遊女たちだった。以前は1日に一人の遊女が相手する客は、昼一人、夜一人と定められていた。しかし、文化年間(1804年〜)ころには「廻し」と称し、一夜に5〜10人もの客を取らされたり、17歳にもならない若い娘に無理に勤めをさせたり、働きが少しでも鈍ると下等な買女屋へ売り渡され、死に至るほど酷使させられたのである。
遊女たちは年季奉公である。一旦、親と雇主との間で契約が成立すると、その期間(年季)が明けるまでは主人の言いなりになるしかない。最長期間は10年と定められていたが、実際には何かの理由を付けては期間が延長されることが多く、年季前に苦界(くがい)とよばれるこの世界から解き放たれるには、馴染み客によって身請けされるか、死ぬしかなかった。もちろん有給休暇や自由出勤などというシステムはない。勤めを休みたい場合は「身揚り(みあがり)」といって自分で自分を買う必要があった。つまり、1日の揚げ代金を借金に加算されたのである。しかし、青春時代を廓の中で過ごす遊女たちにとっては、そうまでしても逢いたい情夫がいたのである。中には見揚りの代金のために、身の回りの服や家具まで売る遊女までいた。さらに、客を取れなかった日にも、仕事を果たさなかったとされ、折檻された上に身揚りさせられることもあったという。
こうした過酷な労働を強いられた遊女たちは、遺体となって吉原を去るケースが多々あった。死者は吉原大門をくぐることは許されない。裏手にある不浄門から跳ね橋を渡り、遊郭を囲む「お歯黒どぶ」を越えて廓外へと運び出されるのである。そして粗末な棺桶に入れられた後、「投げ込み寺」と称される浄閑寺へ運ばれ無縁仏となった。
”生きては苦界、死しては浄閑寺“
後に浄閑寺境内に作られた「吉原総霊塔」の墓碑に刻まれていた川柳である。
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