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太古の昔の大和時代、神社の巫女が“神との交流”を名目にその性を売り物にしたのを先駆けとして、日本において遊女と呼ばれる女性の成立は遥か古代へとさかのぼる。その後、中世から鎌倉へと時代が移り、文化の成熟と共にその宗教的な意義が薄れ、遊女という存在が職業化していった。豊臣秀吉の時代には、そうした遊女屋を一ヵ所に集め、大阪の道頓堀川北岸や京都の二条柳町に、遊郭と呼ばれる公許の色街が形成される。それは、治安や風紀を公権力側が統制するためのシステムだった。
今や日本一のソープ街として知られる吉原のルーツ、元吉原が開かれたのは今から390年前の元和3年(1617年)。徳川家康が江戸城に入府して江戸幕府が始まり、参勤交代制度のため数多くの武士が江戸に集まり、街が活気づき始めていたころである。後に吉原の初代名主となる庄司甚右衛門たちによる遊郭設置願い*1が受け入れられ、江戸幕府は風紀上の理由で、駿府(今の静岡市)の二丁町遊郭をはじめ当時各地に点在していた遊女屋を1カ所にまとめるように命じた。
こうして幕府から与えられた土地は現在の浅草の地ではなく、中央区日本橋人形町付近であった。しかし当時のその土地は葭*2が生い茂る湿地帯で、建物も建てられないほど軟弱な地盤であったという。甚右衛門たちは一年がかりで地盤整地の埋め立て工事を行い、元和4年(1618年)11月、置屋17軒、揚屋24軒で営業を開始。後に日本最大の歓楽街へと変貌する、江戸幕府公認の遊郭が誕生した。
当時の江戸の関所は女性*3の出入りを禁じていたため、江戸に来ていた武士たちはいわゆる単身赴任だったという。そうした客層の背景もあり吉原遊郭は隆盛を極める。上級の遊女は太夫(たゆう)や花魁(おいらん)*4などと呼ばれ、富裕な町人や、武家や公家を主な客とした。このため上級の遊女たちは文学などの教養や芸事に秀で、吉原は単なる遊女屋の集合体ではなく、江戸文化を発信する代表的な娯楽の場として発展した。
その後幕府は、想像以上の吉原人気で場所が手狭になったことや、江戸市中の拡大で大名の江戸屋敷も隣接するようになったことを理由に、当地を幕府用地に返還するよう計画。明暦2年(1656年)10月に、吉原を浅草か向島に移転するよう命じた。奇遇にもそれは日本史上最大の火災「明暦の大火」のちょうど3カ月前であった。
*1.慶長10年(1605年)と慶長17年(1612年)の2度にわたって遊郭設置の陳情を行っている。陳情書の中ではこのころ、全国に公認の遊郭が20カ所余あったとされている。
*2.吉原の語源は、当時の土地は葭葦(よしあし)が茂っている草原だったため「葦原」と名付けたが、葦は「悪し」に通じるのを嫌い、葦を「吉」に変え「吉原」とした説が一般的。
*3.当時の江戸は「娘一人に婿八人」といわれるほど極端に男が多かった。そんなむさくるしい街だからこそ当然の成り行きで遊女屋は潤い、吉原遊郭の需要は非常に高まった。
*4.妹分である禿や常連の客が「おいらの所の姉さん」と呼んだのが語源とされる花魁(おいらん)。花魁は格の高い遊女であり、相手もそれなりの地位が必要だったという。
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太古の昔の大和時代、神社の巫女が“神との交流”を名目にその性を売り物にしたのを先駆けとして、日本において遊女と呼ばれる女性の成立は遥か古代へとさかのぼる。その後、中世から鎌倉へと時代が移り、文化の成熟と共にその宗教的な意義が薄れ、遊女という存在が職業化していった。豊臣秀吉の時代には、そうした遊女屋を一ヵ所に集め、大阪の道頓堀川北岸や京都の二条柳町に、遊郭と呼ばれる公許の色街が形成される。それは、治安や風紀を公権力側が統制するためのシステムだった。
今や日本一のソープ街として知られる吉原のルーツ、元吉原が開かれたのは今から390年前の元和3年(1617年)。徳川家康が江戸城に入府して江戸幕府が始まり、参勤交代制度のため数多くの武士が江戸に集まり、街が活気づき始めていたころである。後に吉原の初代名主となる庄司甚右衛門たちによる遊郭設置願い*1が受け入れられ、江戸幕府は風紀上の理由で、駿府(今の静岡市)の二丁町遊郭をはじめ当時各地に点在していた遊女屋を1カ所にまとめるように命じた。
こうして幕府から与えられた土地は現在の浅草の地ではなく、中央区日本橋人形町付近であった。しかし当時のその土地は葭*2が生い茂る湿地帯で、建物も建てられないほど軟弱な地盤であったという。甚右衛門たちは一年がかりで地盤整地の埋め立て工事を行い、元和4年(1618年)11月、置屋17軒、揚屋24軒で営業を開始。後に日本最大の歓楽街へと変貌する、江戸幕府公認の遊郭が誕生した。
当時の江戸の関所は女性*3の出入りを禁じていたため、江戸に来ていた武士たちはいわゆる単身赴任だったという。そうした客層の背景もあり吉原遊郭は隆盛を極める。上級の遊女は太夫(たゆう)や花魁(おいらん)*4などと呼ばれ、富裕な町人や、武家や公家を主な客とした。このため上級の遊女たちは文学などの教養や芸事に秀で、吉原は単なる遊女屋の集合体ではなく、江戸文化を発信する代表的な娯楽の場として発展した。
その後幕府は、想像以上の吉原人気で場所が手狭になったことや、江戸市中の拡大で大名の江戸屋敷も隣接するようになったことを理由に、当地を幕府用地に返還するよう計画。明暦2年(1656年)10月に、吉原を浅草か向島に移転するよう命じた。奇遇にもそれは日本史上最大の火災「明暦の大火」のちょうど3カ月前であった。
*1.慶長10年(1605年)と慶長17年(1612年)の2度にわたって遊郭設置の陳情を行っている。陳情書の中ではこのころ、全国に公認の遊郭が20カ所余あったとされている。
*2.吉原の語源は、当時の土地は葭葦(よしあし)が茂っている草原だったため「葦原」と名付けたが、葦は「悪し」に通じるのを嫌い、葦を「吉」に変え「吉原」とした説が一般的。
*3.当時の江戸は「娘一人に婿八人」といわれるほど極端に男が多かった。そんなむさくるしい街だからこそ当然の成り行きで遊女屋は潤い、吉原遊郭の需要は非常に高まった。
*4.妹分である禿や常連の客が「おいらの所の姉さん」と呼んだのが語源とされる花魁(おいらん)。花魁は格の高い遊女であり、相手もそれなりの地位が必要だったという。
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